以下の丸山林平「定本古事記」は、同氏の相続人より、SSI Corporationが著作権の譲渡を受けたものである。

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事記の注釈書は、宣長の記伝以前には一つも現われていない。そのことを、記伝は次のように述べている。

此の記、むかしより註釈あることをきかず。たゞ元々集といふ物に、或記に云く、古事記釈云々、また古事記の釈註に曰く云々とあるは、むかし釈註といふもの有りしにこそ。そは誰が作れりしにか、其の名だに他には見えず、まして今は聞えぬ物なり。或偽書に、此の記の註とて、名を作りて、引きたることあれど、そらごとなれば、いふにたらず。  古事記伝 本居宣長著、四十四巻、寛政十年(一七九八)完成。宣長の没後、約二十年を経て、文政五年(一八二二)刊行。延佳本におくれること、約百年、今から約百七十年前である。本居清造の「鈴屋翁略年譜補正」に、
寛政十年、三月四日、古事記伝巻四十四起稿、六月七日脱稿、同月十三日浄書終る。全部終業。

とある。本書は、碩学本居宣長が三十余年の歳月を費し、心血を注ぎ、精魂を傾け尽くして成った、空前絶後とも称すべき大研究であり、大著述である。宣長は、心が事を生じ、事が言に現われるとし、まず言を明らかにすることによって、事の真相を知り、次いで心の奥をきわめようとする。これが、宣長の学問研究の根本方針とされている。そこで、宣長は、古代精神を知るために、記伝において、「ことば」の研究に最も努力を払っている。その方法は、あくまで科学的であって、一つの「ことば」の意義について、まわりくどいまでに、あらゆる文献および諸家の学説を渉猟し、これを帰納的に決定している。その態度には、まことに驚嘆すべきものがあった。しかし、その半面、宣長はきわめて自信の念の強い人であって、自説を堅く執り、自己の意に反する説に対しては、先学契沖などに対してすら、「いにしへを知らざるひがことなり。」などと、きめつけている。当時、宣長と対立していた国文学者・小説家なる上田秋成は、宣長のこうした態度を非難して、
「ひがごとを言うてなりとも弟子欲しや、乞食伝兵衛と人は言ふとも」
などと揶揄している。

て、記伝の最もはなはだしい誤りは、実に仮名の訓法にあり、中でも、字音仮名の訓法にある。そして、その後の古事記研究者は、今日に至るも、記伝の誤訓を、そのまま踏襲して、一歩も出ることができないかのようである。仮名の誤訓は、やがて語の解釈に大きな誤りをきたす。
われわれが古事記を研究し、日本民族の古代精神や古代信仰や、古代史や古代民俗などをきわめようとするためには、文字における一点一画も、訓法における一音素・一音節といえども、これを誤ってはならないのである。しからば、宣長ほどの碩学が、なにゆえに、仮名の訓法を誤ったかというに、それは全く方法上の誤りに基づくものである。宣長は語句の解釈には、上述のごとく帰納法を執っていながら、仮名の訓法には、がらりと態度を一変して演繹法を執っているのである。すなわち、宣長は、「この仮名は斯く訓ずる」とする独断的信念に基づいて、個々の仮名を律しようとしているのである。その根本は、宣長が古事記を神典視し、宗教的感情の基盤に立っているからであろうと思う。その具体例は、項を改めて、やや詳細に述べることとする。

お、ここに付言しておきたいことは、古事記は数か国の語に翻訳されているが、すべて宣長の記伝に依拠しているということである。中でも、最もあらわれているのは、一九〇六年、Basil Hall Chamberlainの英訳"THE KOJIKI" or "Record of Ancient Matters"である。この訳書は、記伝の誤訓をそのまま採用している、たとえば、"hiko" "hime"を"biko" "bime"とし、"Taka-mi-musu-hi no-kami"を"Taka-mi-musu-bi no-kami"とし、"Toyo-kumo-no-no-kami"を"Toyo-kumo-nu-no-kami"などとしている類である。

治以後の注釈書 江戸時代には、多くの校訂本が出ているが、記伝以後、注釈書は一つも出ていない。ところが、明治以後になると、次田潤氏の「古事記新講」などを初めとして、倉野憲司氏、神田秀夫氏その他の諸氏の注釈書が、すこぶる多く出版されている。これらの注釈書は、たとえば、仮名の訓法のうち「ヌ」などは、ほとんど「ノ」に訂正されているが、たいてい「ビコ」「ビメ」式の訓を踏襲しているのみならず、せっかく「訂正古訓古事記」を底本としていながら、真本の衍文をそのまま採り入れたり、また、底本が正しく「猟」(かり)に作っているのを古写本の「數」(短喙の犬)の誤写を正しいと見て、これに従っていたり、せっかく、正しく「伊邪那岐命」に作りながら、古写本に従って、「伊邪那伎命」に作って、不統一に陥ったりしたようなものがある。また、中には、誤写のはなはだしい真本を底本としているものなどもある。これなどは、まさしく逆行というべきであろう。凡そ学問の進歩とか文化の発展とかは、前人の研究の到達点、これまでの文化の頂点に立って、さらに一歩を進めるところになければならぬ。何びとも認めているごとく、古事記の研究では、宣長の記伝をもって、とにかく、これまでの到達点と見なされねばならぬ。われわれは、この記伝の上に立って、さらに一歩を進めるべきものである。しかるに、最古の写本であるとか、国宝に指定されているなどの俗信からか、無学の若い僧賢瑜の誤写した真本を底本として、その誤りを無反省に踏襲するような態度は、真面目な学徒のとるべき態度ではないと思う。だから、そういう注釈書を見ると、真本の誤写をそのまま、「裳」を「禹」に、「鬘」を「縵」に、「靫」を「靱」に作ったりしている。しかも、真本にはほとんど訓が施されていないので、たとえば「岐」を「キ」とのみ訓ずるものと思いこんでか、すべて「いざなきのみこと」と訓じている。字音仮名の訓では、さすがかたくなな宣長でさえ、「岐」を「清濁通用」としていて、「伊邪那岐命」と訓じている。そして、それは紀の訓とも一致する。また、すでに死んだはずの「いざなみのみこと」が、十拳剣を抜いて、その子かぐつちの神の頸を斬ったりしている。

かし、これなどは誤植かもしれないが、記伝のかたくなな説に従ってか、「豆」を必ず「ヅ」のみの字音仮名と信じているらしく、允恭天皇の段の歌謡「阿志比紀能、夜麻陀袁豆久理」(あしひきの、山田を作り)の「夜麻陀袁豆久理」を「山田小作」などと訓じ、その頭注に、
「山田を作り」かとも思うが、「つ」ではなく「づ」なので、「小作り」とした。
などとある。この「山田小作」とは、どんな意味か、恐らく何びとにも理解されまいと思う。しかし、わたくしは、いたずらに非難しようとするものではない。学問の進歩、真理の追究のために、ともどもに手を携えて精進したいと思うのみである。
なお、次項の 「字音仮名遣」を参照されたい。



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