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丸山林平「定本古事記」

- 中巻 -

【 垂仁天皇 】

原 文
樸、天皇、以二三宅苣等之督、名多遲庄毛理一虔二常世國、令レ求二登岐士玖能聟玖能木實。【自レ登下八字、以レ音。】故、多遲庄毛理、蒹到二其國、採二其木實、以二蔭八蔭・矛八矛一將來之間、天皇蝉紡。爾、多遲庄毛理、分二蔭四蔭・矛四矛、獻二于太后、以二蔭四蔭・矛四矛、獻二│置天皇之御陵竿一而、蟄二其木實、叫哭以、白二常世國之登岐士玖能聟玖能木實持參上侍、蒹叫哭死也。其登岐士玖能聟玖能木實隅、是今橘隅也。
読み下し文
樸、天皇、三宅連等の祖、名は多遅摩毛理を常世の国に遣はして、登岐士玖能聟玖能木の実を求めしめたまひき。【登より下の八字、音を以ふ。】故、多遅摩毛理、遂に其の国に至り、其の木の実を採りて、蔭八蔭・矛八矛を将ちて来つる間に、天皇既に崩りましぬ。爾に、多遅摩毛理、蔭四蔭・矛四矛を分けて、太后に献り、蔭四蔭・矛四矛を、天皇の御陵の戸に献り置きて、其の木の実を蟄げ、叫び哭びて、「常世の国の登岐士玖能聟玖能木の実を持ちて参上りて侍ふ。」と白して、遂に叫び哭びて死せにけり。其の登岐士玖能聟玖能木の実は、今の橘といふものなり。
丸山解説
〔三宅苣〕天日槍の裔なる田道間守の後。くわしくは応神天皇の段を見よ。「三宅」は屯倉。屯倉は各地にあり、これを姓とした氏族が多いが、三宅連は但馬の屯倉の地を姓としたものであろう。紀によれば、三宅連は、天武天皇の十三年十二月に宿斑に昇格している。〔多遲庄毛理〕諸本、ここの「摩」を「麻」に作る。いま、真本に拠る。すぐ下には、すべて「摩」とあるからである。ただし、応神天皇の段では、この一族すべて「摩」とあるのに、この人だけは「麻」とある。但馬守の意であろう。〔常世國〕既出。記伝は「此は新羅の国を指して云へるなるべし。」などと言い、また「橘は漢国にても、南の方にありて、北の寒き国には無き物ときけば、三韓などには、いかがあらむ……此の常世の国は漢国を云へるならむ。」などとも述べている。この伝説を史実と思っているからである。垂仁紀百年三月によれば、田道間守は、常世の国への往復に十年の歳月を費している。片道五年として、橘の実を腐らせずに持って来ることは不可能であろう。断じて史実ではない。常世の国は、古代日本人の頭に描いた理想郷である。
田中孝顕 注釈

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