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丸山林平「定本古事記」

- 中巻 -

【 倭潼命 】

原 文
自レ其入幸、悉言二│向荒夫琉蝦夷等、亦徘二│和山河荒突等一而、裝上幸時、到二足柄之坂本、於下食二御粮一處上、其坂突、化二自鹿一而來立。爾來、以二其咋蠑之蒜片端、待打隅、中二其目一乃打殺也。故、登二│立其坂、三歎、詔二│云阿豆揺波夜。【自阿下五字、以レ音也。】故、號二其國、謂二阿豆揺一也。來自二其國一越、出二甲斐、坐二酒折宮一之時、歌曰、 邇比婆理 綾久波袁須疑弖 伊久用加泥綾流 爾、其御火焼之老人、續二御歌一以歌曰、 聟賀那倍弖 用邇波許能用 比邇波登袁加袁 是以、譽二其老人、來給二東國芟一也。
読み下し文
其より入り幸でまして、悉に荒夫琉蝦夷等を言向け、亦山河の荒ぶる神等を平和して、還り上り幸でましし時に、足柄の坂本に到りまして、御粮を食しめす処に、其の坂の神、白き鹿に化りて、来立ちにけり。爾即、其の咋遺の蒜の片端以て、待ち打ちたまひしかば、其の目に中てて、打ち殺したまひき。故、其の坂に登り立たして、三たび嘆かして、「阿豆麻波夜。」【阿より下の五字、音を以ふ。】と詔云りたまひき。故、其の国を号づけて、阿豆麻とは謂ふなり。即て其の国より越えて、甲斐に出で、酒折の宮に坐しましける時に、歌して曰りたまひけらく、 (二六) 新治 筑波を過ぎて 幾夜か寝つる 爾に、其の御火焼の老人、御歌を続ぎて、歌ひて曰しけらく、 (二七) かがなべて 夜には九夜 日は十日を ここをもて、其の老人を誉めて、即て東の国造を給はりき。
丸山解説
〔自レ其入幸〕それよりいりいでます。走水を渡られ、今の上総国から常陸国の奥まで入られた。〔蝦夷〕えみし。上代における人種の一。「レ見」などの説には、従いかねる。〔足柄之坂本〕あしがらのさかもと。足柄山の麓。紀には「碓氷嶺」とある。伝の相違である。筆者の先輩で、今は故人になったが、箱根宮の下の蔦屋の主人は、蔦屋の裏の山であると断定し、日本武尊の立って、「あづまはや」と叫んだ石まで発見したと、筆者に語ったことがある。当人は、真顔で、そう信じきっていた。また碓氷峠に近い群馬県には「吾嬬郡」があり、「あづまはや」と叫ばれたことによる地名だと、バスガールなどは説明している。〔咋虔〕みをしのこり。食べのこり。底本は「遺」を「遣」に誤っている。〔蒜〕ひる。「のびる」のこと。野に生ずるのでいう。「にんにく」そのものではない。
田中孝顕 注釈

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