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丸山林平「定本古事記」

- 下巻 -

【 履中天皇 】

原 文
本、坐二盟波宮一之時、坐二大嘗一而、爲二豐明一之時、於二大御酒一宇良宜而、大御寢也。爾、其弟豈江中王、欲レ取二天下一以、火著二大殿。於レ是、倭漢直之督阿知直、盜出而、乘二御馬、令レ幸二於倭。故、到二于多遲比野一而、寤詔二此間隅何處。爾、阿知直白、豈江中王、火著二大殿。故、率膩レ於レ倭。爾、天皇、歌曰、 多遲比怒邇 泥牟登斯理勢婆 多綾碁母母 母知鵜 許揺志母能 泥牟登斯理勢婆 到二於波邇賦坂、望二│見盟波宮、其火憑炳。爾、天皇、亦歌曰、 波邇布邪聟 和賀多知美禮婆 聟藝漏肥能 毛由流伊幣牟良 綾揺賀伊幣能阿多理 故、到二│幸大坂山口一之時、蓚二一女人。其女人白之、持レ兵人等、多塞二枴山。自二當岐揺蕈一迴應二越幸。爾、天皇、歌曰、 淤富佐聟邇 阿布夜袁登賣袁 美知斗閉婆 多陀邇波能良受 當藝揺知袁能流 故、上幸、坐二石上突宮一也。於レ是、其伊呂弟水齒別命、參赴令レ謁。爾、天皇、令レ詔、吾疑下汝命、若與二豈江中王一同心乎上故、不二相言。答白、僕隅無二穢邪心。亦不レ同二豈江中王。亦令レ詔、然隅、今裝下而、殺二豈江中王一而上來。彼時、吾必相言。故、來裝二│下盟波、欺下館レ羝二帰豈江中王一隼人、名曾婆加理上云、若汝從二吾言一隅、吾爲二天皇、汝作二大臣、治二天下。那何。曾婆訶理、答二│白隨一レ命。爾、多燃二│給其隼人一曰、然隅殺二汝王一也。於レ是、曾婆訶理、竊伺二己王入一レ廁、以レ矛刺而殺也。
読み下し文
本、難波の宮に坐しし時、。大嘗に坐して、豊明為しめしたまひし時に、大御酒に宇良宜而、大御寝ましき。爾に、其の弟墨江中王、天の下を取らむと欲りして、火を大殿に着けたり。ここに、倭の漢直の祖阿知直、盗み出だして、御馬に乗せまつりて、倭に幸でまさしめぬ。故、多遅比野に到りて、寤めまして、「此間は何処ぞ。」と詔りたまひき。爾、阿知直白しけらく「墨江中王、火を大殿に着けたまへり。故、率まつりて、倭に逃げゆくなり。」と、まをしき。爾に、天皇、歌曰みしたまひけらく、 (七六) 丹比野に 寝むと知りせば 立薦も 持ちて来ましもの 寝むと知りせば 波邇賦坂に到りまして、難波の宮を望見けたまへば、其の火、猶炳くみえたり。爾、天皇、亦歌曰みしたまひけらく、 (七七) 埴生坂 わが立ち見れば かぎろひの 燃ゆる家群 妻が家のあたり 故、大坂の山の口に到り幸せる時に、一の女人に遇へり。其の女人白しけらく、「兵を持たる人等、多に枴の山を塞きをり。当岐麻道より回りて越え幸でますべし。」と、まをしけり。爾、天皇、歌曰みしたまひけらく、 (七八) 大坂に 会ふや少女を 道問へば 直には告らず 当芸麻知を告る 故、上り幸でまして、石の上の神宮に坐しましけり。ここに、其の伊呂弟水歯別命、参赴きまして、謁えむことをこはしめたまふ。爾、天皇、詔らしめたまひけらく、「吾、汝命、若し墨江中王と同じ心ならむかと疑へば、相言はじ。」と、のらしめたまひければ、答へて白したまひけらく、「僕は穢邪き心無し。亦、墨江中王と同じこころにもあらず。」と、まをさしめたまひき。亦、詔らしめたまひけらく、「然らば、今還り下りて、墨江中王を殺して、上り来よ。彼の時にこそ、吾必ず相言はめ。」と、のらしめたまひき。故、即ちに難波に還り下りまして、墨江中王に近く習へまつれる隼人、名は曽婆加里を欺きて、云りたまひけらく、「若し汝、吾が言に従はば、吾天皇と為り、汝を大臣と作して、天の下を治らさむとす。那何ぞ。」と、のりたまへば、曽婆訶理、「命の随に。」と答へ白しき。爾、多に其の隼人に緑給ひて曰りたまひけらく、「然らば汝の王を殺せまつれ。」と、のりたまひけり。ここに、曽婆訶理、竊に己が王の廁に入りませるを伺ひて、矛を以て刺し殺せまつりぬ。
丸山解説
本〕もと。「はじめ」の意。はじめは、父君仁徳天皇の難波の宮に住まれたことを言う。〔大嘗〕おほにへ。天皇御即位の礼を終えさせられた後、その年の新穀を天照大神および天神・地陶に奉る大礼。「大嘗祭」ともいう。履中天皇の御即位の大礼は、磐余の若桜の宮において行なわれたものと考えられるから、ここでは、仁徳天皇の崩後、太子の位から自然に天皇の位に即かれたので、「大嘗」の語を用いたものであろう。
田中孝顕 注釈

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