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丸山林平「定本古事記」

- 下巻 -

【 安康天皇 】

原 文
自レ枴以後、淡恭之佐佐紀山君之督、名韓嗇白、決恭之久多【此二字、以レ音。】綿之蚊屋野、多在二慂鹿。其足隅、如二荻原、指擧角隅、如二枯樹。此時、相二率市邊之竄齒王、幸二行淡恭、到二其野一隅、各異作二假宮一而宿。爾明旦、未二日出一之時、竄齒王、以徘心、隨レ乘二御馬、到二立大長谷王假宮之傍一而、詔二其大長谷王子御汽人、未二寤坐、早可レ白也。夜蝉曙訖。可レ幸二獵濳。乃荵レ馬出行。爾、侍二其大長谷王之御館一人等、白三宇多弖物云王子【宇多弖三字、以レ音。】故、應レ愼。亦宜レ堅二御身。來衣中燮レ甲、取二佩弓矢、乘レ馬出行。倏忽之間、自レ馬往雙、拔レ矢、射二落其竄齒王。乃亦切二其身。入二於馬泪、與レ土等埋。於レ是、市邊王之王子等、意富豆王・袁豆王、【二柱】聞二此亂一而膩去。故、到二山代苅監井、食二御粮一之時、面黥老人來、奪二其粮。爾、其二王言、不レ惜レ粮。然、汝隅誰人。答曰、我隅山代之慂甘也。故、膩二渡玖須婆之河、至二針間國、入二其國人、名志自牟之家、隱レ身、鑑二於馬甘・牛甘一也。
読み下し文
枴より以後、淡海の佐佐紀山君の祖、名は韓嗇白しけらく、「淡海の久多【此の二字、音を以ふ。】綿の蚊屋野に、多に猪鹿在り。其の立てる足は、荻原の如く、指挙げたる角は、枯樹の如し。」 と、まをしけり。此の時、市辺之忍歯王を相率ひて、淡海に幸行でまして、其の野に到りまししかば、各仮宮を作りて宿りたまひき。爾に、明くる旦、未だ日の出でざる時に、忍歯王、以平心、御馬に乗れる随に、大長谷王の仮宮の傍に到り立たして、其の大長谷王子の御伴人に詔りたまひけらく、「未だ寤め坐さざるか。早く白すべし。『夜は既に曙訖。猟濳に幸でますべし。』」 と、のりたまひ、乃りて馬を進めて出で行きましけり。爾に、其の大長谷王の御所に侍らふ人等、「宇多弖物云ふ王子【宇多弖三字、音を以ふ。】故、慎みたまふべし。亦、御身を竪めたまふべし。」と白しけり。即、衣の中に甲を服まし、弓矢を取り佩かし、馬に乗らして出で行きましぬ。倏忽之間、馬より往き双ばして、矢を抜きて、其の忍歯王を射落したまふ。乃りて亦、其の身を切り、馬泪に入れて、土と等しく埋みたりき。ここに、市辺王の王子等、意富豆王・袁豆王、【二柱】此の乱れを聞かして、逃げ去りたまひき。故、山代の苅羽井に到りまして、御粮を食したまふ時に、面黥ける老人来て、其の粮を奪ひき。爾、其の二の王、言りたまひけらく、 「粮は惜しまず。然れども、汝は誰人ぞ。」と、のりたまへば、答へて白しけらく、「我は山代の猪甘なり。」と、まをしき。故、玖須婆の河を逃げ渡りて、針間国に至りまし、其の国人、名は志自牟の家に入りまして、身を隠したまひ、馬甘・牛甘にぞ鑑はえましける。
丸山解説
〔佐佐紀山君〕ささきのやまのきみ。孝元紀七年二月に大彦命の裔として、「狭狭城山君」の名が出ている。狭狭城(佐佐木)は、近江国(滋賀県)蒲生郡の旧庄名で、今の安土村およびその付近に当たる。「やまのきみ」は、山部の首長。記に、韓嗇を佐佐紀の山の君の「祖」とあるは、誤り。紀には「祖」とはない。〔韓嗇〕からぶくろ。「三韓の袋」の意の名か。この人、紀によれば、顕宗天皇により籍帳を削除され、山部連に隷属せしめられた。ゆえに、山の君の祖ではない。〔久多綿之蚊屋野〕くたわたのかやの。「かやぬ」は非。東大寺三綱記に「来田綿西明西寺、在二蒲生郡来田綿熊野。」とある。「蚊屋野」は恐らく「茅野」であり、後に「熊野」と訛したのであろうか。今の滋賀県蒲生郡西大路村字北畑の辺という。「北畑」は「来田綿」の訛であろう。
田中孝顕 注釈

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