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丸山林平「定本古事記」

- 下巻 -

【 清寧天皇 】

原 文
故、將レ治二天下一之間、徘群臣之督、名志豐臣、立二于歌垣、孚二其袁豆命將レ婚之美人手。其孃子隅、菟田首等之女、名大魚也。爾、袁豆命亦立二歌垣。於レ是、志豐臣、歌曰、 意富美夜能 袁登綾波多傳 須美加多夫豆理 如レ此歌而、乞二其歌末一之時、袁豆命、歌曰、 意富多久美 袁遲那美許曾 須美加多夫豆禮 爾、志豐臣、亦歌曰、 意富岐美能 許許呂袁由良美 淤美能古能 夜幣能斯婆加岐 伊理多多受阿理 於レ是、王子、亦歌曰、 斯本勢能 那袁理袁美禮婆 阿蘇豐久流 志豐賀波多傳爾 綾揺多弖理美由 爾、志豐臣、蝙忿歌曰、 意富岐美能 美古能志婆加岐 夜布士揺理 斯揺理母登本斯 岐禮牟志婆加岐 夜氣牟志婆加岐 爾、王子、亦歌曰、 意布袁余志 斯豐綾久阿揺余 斯賀阿禮婆 宇良胡本斯豆牟 志豐綾久志豐 如レ此歌而、泣明、各膠。明旦之時、意富豆命・袁豆命二柱、議云、凡咆廷人等隅、旦參三│赴於二咆廷、晝集二於志豐門。亦今隅、志豐必寢。亦其門無レ人。故、非レ今隅、難レ可レ謀。來興レ軍、圍二志豐臣之家、乃殺也。
読み下し文
故、天の下を治しめさむとせし間、平群臣の祖、名は志豐臣、歌垣に立ちて、其の袁豆命の婚さむとせし美人の手を取れり。其の嬢子は、菟田の首等の女、名は大魚といへり。爾、袁豆命も亦、歌垣に立たしけり。ここに、志豐臣、歌曰ひけらく、 (一〇五) 大宮の 遠つ端で 隅傾けり かく歌ひて、其の末の歌を乞ひし時に、袁豆命歌曰ひたまひけらく、 (一〇六) 大匠 拙劣みこそ 隅傾けれ 爾、志豐臣、亦歌曰ひけらく、 (一〇七) 王の 心をゆらみ 臣の子の 八重の柴垣 入り立たずあり ここに、王子、亦歌曰ひたまひけらく、 (一〇八) 潮瀬の 波折を見れは 游び来る 鮪が鰭でに 妻立てり見ゆ 爾、志豐臣、蝙忿りて歌曰ひけらく、 (一〇九) 王の 王子の柴垣 八節しまり しまりもとほし 切れむ柴垣 焼けむ柴垣 爾、王子、亦歌曰ひたまひけらく、 (一一〇) 大魚よし 鮪突く海人よ 其が離れば 心恋しけむ 鮪突く鮪 かく歌ひて、闘ひ明かして、各退けましぬ。明旦之時、意富豆命・袁豆命の二柱、議りて云りたまひけらく、「凡そ朝廷の人等は、旦には朝廷に参赴り、昼には志豐の門に集ふ。亦今は志豐必ず寝ねつらむ。亦其の門に人も無けむ。故、今にあらずば、謀るべきこと難けむ。」と、のりたまひて、即ちに軍を興して、志豐臣の家を囲み、乃ち殺したまひき。
丸山解説
ここの歌垣の物語は、紀では、数代後の武烈天皇が、太子時代に鮪臣と一少女を争った物語となっている。紀の伝が正しいであろう。なぜなら、つぶさに辛酸を甞められた袁豆命が、しかも、清寧天皇崩御の直後に、歌垣に立って、一少女を争うというようなことは、事情のうえからも、同王子の性格のうえからも、とうてい考えられぬことである。
記が、ここに、この物語を入れてしまったために、さしもの桀・紂・ネロ的性格で、多くの残酷な物語を有する武烈天皇の記事は、記には、ほとんどしるされていないのである。
田中孝顕 注釈

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