暫時徒然

古典研究サイト 埋れ木

加齢における所有感より占有感への変移に関する小論…とか

2011-04-03

年齢が積み重なって、還暦などという声を聞くようになると、私はこれまで自分が「所有」していたものが、所有感ではなく、占有感に変わっていることを知った。人生の春夏にあっては、この車は俺のもの、この○○も俺のもので、ずっと永久に俺のもの、という思いが無意識にもあったように思う。

ところが、なんとなくターミナルがちらちらと見えて来る歳になると、「この○○も、所詮死んだら親族の手に渡り(私は子供がいない。心配のタネを持たずに済んだ)、場合によっては転売されてしまうんだろうなぁ…」という、この最後の「なぁ…」がだんだん鮮明になり、いまや私と私の持ち物のすべてとの間には、何か契約をでもしたかのように、隙間が空き、所詮、当面の間、自分の周りにあるだけ、という占有感で満たされている自分しかいなくなる。

女優の高峰秀子だんだったか、ある雑誌に、「60歳になったのを切っ掛けに夫と相談して、世界中で買い集めたものを、全部処分してすっきりした」ごとき記事を40歳前後に読んだことがある。

といっても、その時は「思い切ったことをやる人だな」と思っただけだ。最近では、山本陽子さん(高校時代の先輩なので、ここでは敬称を入れる)がテレビで、沢山ある着物などについて、やはり身内にどんどんあげていくようなことを言っていた。

ところで私だが、やはり処分してしまいたいものが沢山ある。
もっともカミさんにはいて貰わなくては困る。男というものは蚕のようなもので、飼う人間がいなくなると、生きていけなくなる。家畜も概ねそんなところがあるが、ともあれ私一人では何も出来ない。
その私が、今一番処分しなくてはならないものは書籍である。一冊古書店で三万円で購入した国文学に関する本を中心に、もはや脚の踏み処もないといっていい状態である。

ところが、思い切りが付かない。「もしや、参照しなければならない時もあるのでは」などという妄想をつい持ってしまうのだ。そんな機会は零コンマ以下だと知ってはいるのだが、どうにも接着剤でくっついてしまったように、妄想から離れられないのである。

とはいえ、小説や辞書などの類はかなり処分した。辞書などはネットで参照できるからである。
書籍以外では稀少カメラ、限定品のカメラなどのコレクション、これはごっそりと取引先の社長に贈呈した。あまり未練もなかったのは、アナログカメラだったためであるが、価値は相当にあるものであった。

さて、問題の専門書の処分だが、天井に引き下ろし型の書棚を設けてそこに入れるか、とまだ未練が甚だしい。が、なんとかするしかない。

こうして、物に関するものはもう極力購入を控え、食事とか旅行や寄付などの無体物(一見法律用語のようだが、さにあらず。要は形のないもの)に金を使おうと思っている。だが、目下、ダイエット中である。あと10キロは減量しなければならない。思えば、この中性脂肪だけは、所有感がいまだ濃厚である。

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